「1920年代の雅なる宴-マリー・ローランサンとココ・シャネルの世紀をめぐって」図書館でギャラリートークを開催

「1920年代の雅なる宴-マリー・ローランサンとココ・シャネルの世紀をめぐって」図書館でギャラリートークを開催

1900年代に活躍したフランスの女性画家マリー・ローランサン。日藝図書館では、2023年4月~5月に「マリー・ローランサンとモード」の展示を行いました。
通常、貴重資料はガラスケース内で展示しますが、このたび図書館では、学生たちに貴重資料を直接手にとって見てもらう太っ腹企画「ギャラリートーク」を開催。しかも、レクチャーは美術史学が専門で、テレビ番組「なんでも鑑定団」の鑑定士としても活躍される、美術学科・大熊敏之教授にお願いしました。
以下、大熊先生レクチャーによるギャラリートークの一部を掲載します。

 

時間も限られていますし、すでにマリー・ローランサンの簡単な経歴は御存知のことでしょうから、本日は、“Les Biches”(牝鹿)二巻本についてお話しすることから始めましょう。 

本書の出版は、1924年。セルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)が同年に新作バレエ《牝鹿》を上演した記念として、限定260部で刊行されたフランス装書籍です。本学部図書館所蔵本には第245番の番号が記されています。ローランサンによる舞台装飾の構想画や舞台衣装のデザイン画を精緻に複製印刷した15葉のほか、実際の舞台の記録写真やオーケストラ・スコアの一部などが収められており、当時の最高水準の印刷技術を駆使した瀟洒な仕立ての豪華本となっています。今日では入手困難な貴重書です。

展示されたマリー・ローランサンに関する貴重書。大熊教授より説明のあった中央見開きの2冊が『Les Biches (牝鹿) : Théatre Serge de Diaghilew v. 1,v. 2,v』1924年刊行(限定260部うちシリアルN0.245)(日本大学芸術学部所蔵)

『LesPetites Filles (少女たち)』 1923年刊行 マリー・ローランサンの19枚の水彩画と1枚のデッサンからなる小さなアルバムのダニエル・ジャコメによる複製(限定250部うちシリアルN0.207)(日本大学芸術学部所蔵)

バレエ《牝鹿》は、脚本がジャン・コクトー、振り付けが天才舞踏家ヴァーツラフ・ニジンスキーの妹ブロニスラヴァ・ニジンスカ、舞台装置と衣装のデザインを担当したのが、ローランサン、そして音楽は、まだ24歳であったフランシス・プーランクが作曲しました。

今CDでお聞かせしているのは、舞台公演のための原曲からプーランク自身が序曲と合唱部分を除いて5曲でまとめたバレエ組曲《牝鹿》の一部で、フランスの名匠ジョルジュ・プレートルが指揮したパリ音楽院管弦楽団の演奏です。1961年の録音で、翌年にフランスEMI傘下のパテ・マルコーニからLPレコードとして発売されており、そのジャケットには、二巻本の表紙を共に飾るローランサンの美しいデザイン画が、大きくあしらわれています。

大熊教授が手にするのは、ローランサンのデザイン画による『三つの現代バレエ音楽:プーランク《牝鹿》、デュティユー《狼》、ミヨー《世界の創造》』レコードのジャケット

それでは、一幕のバレエ作品《牝鹿》とは、どのような内容だったのでしょうか。初演はパリに先立ちモンテカルロで行われましたが、この時の舞台設定は、白く塗られた部屋に青いソファが一つ置かれているのみの簡潔なもの。そして筋書きは、夏の午後に、その部屋に集った三人の水着姿の青年たちが、十六人の娘たちと無邪気かつ不道徳に遊び戯れるだけというものです。つまりは、1920年代パリの上流階級社会での、きわどくも優美な当世風の「雅なる宴」の風俗の一端を舞踏化したものだったわけです。

フランス語のBicheには、文字通りの「牝鹿」とともに、隠語として「かわい子ちゃん」や「高級娼婦」の意味もあるのですが、ここからも連想されるように、耽美的かつ背徳的で、モダンではあるが、旧体制以来の貴族趣味の趣すら漂わせる舞台を彩ったのがプーランクの音楽で、その曲想はまことに軽妙洒脱なものといえます。コクトーらが構想した現代版「雅なる宴」に合致する響きなのです。同じ「フランス六人組」の作曲家でも、たとえばダリウス・ミヨーやアルチュール・オネゲルだったら、このような洒落たエスプリに満ちた音楽にはならなかったでしょう。

『Les Biches (牝鹿) : Théatre Serge de Diaghilewv. 1,v.』

「雅なる宴」(Fêtes galantes)は、18世紀フランス・ロココを代表する画家アントワーヌ・ヴァトーが創始した画題で、着飾った貴族や貴婦人たちが野外で会話や音楽、舞踏、食事を楽しみ、あるいは恋を囁く様子を描いた、ほのかに憂愁味漂う夢見心地な雰囲気と演劇的な構図を特色としています。

この「雅宴画」に端を発する「雅なる宴」の主題は、以後フランスの芸術のなかでは長く引き継がれていくことになります。ロココ絵画では、ヴァトーの後にニコラ・ランクレやヴァトーの弟子のジャン=バティスト・パテルが雅宴画家として活躍し、次の世代のフランソワ・ブーシェや次の次の世代のジャン・オノレ・フラゴナールも雅宴画の発展形といえる独自の画題の作品を数多く描き残しています。それらの真の主題は、戯れの恋をゲームのように愉しむ、すなわち「恋の戯れ」、もしくは「恋の駆け引き」というものであり、同じ18世紀にピエール=オーギュスタン・カロン・ド・ボーマルシェが書いた戯曲に基づいてロレンツォ・ダ・ポンテが台本を用意し、モーツァルトが作曲することで生み出された傑作歌劇《フィガロの結婚》も、「雅なる宴」の系譜に連なるものです。

その後、フランス革命を経た19世紀には、貴族に代わり台頭したブルジョワジーが富と地位の象徴としてロココ風の家具や工芸品で室内を飾るようになり、さらに1850年代から60年代にかけてのナポレオン三世時代の第二帝政期には、18世紀宮廷文化への懐旧の念からロココ・リヴァイバルの芸術が隆盛し、マリアノ・フォルトゥーニらの新作雅宴画が上流階級の人々に好まれました。
また、同時期に印象主義を推し進めていたピエール=オーギュスト・ルノワールも雅宴画を着想源とした主題作品を描き残しています。ついでながら、この印象派の巨匠ルノワールの次男は映画監督のジャン・ルノワールですが、ジャンは1939年に公開された《ゲームの規則》という名作「コメディ」映画を制作しており、これもまた上流社会での「恋の戯れ」をテーマとした、いわば20世紀の「雅宴映画」になっています。
さらに象徴主義の詩人ポール・ヴェルレーヌは、ヴァトーの雅宴画に想を得た詩集“Fêtes galantes”を1869年に発表しています。それを受けて、ガブリエル・フォーレ、クロード・ドビュッシー、モーリス・ラヴェルというフランス近代音楽を代表する作曲家たちが詩集に収められた詩を歌詞として、各々に歌曲を作曲することとなります。彼らがヴェルレーヌを通じて18世紀の「雅なる宴」に思いを馳せることとなったのは、古の宮廷文化を飾る、繊細かつ憂愁味を帯びたフランス的エレガンスに憧れと共感の念を抱いたためであったといえます。そして、やはりプーランクもまた、これは1943年になってからのことではありますが、ルイ・アラゴンの詩に基づいて歌曲《雅なる宴》を作曲しているのです。

実際、音楽史の面からみても、19世紀末のドビュッシーの時代以降、18世紀フランスの作曲家ジャン=フィリップ・ラモーを軸とした古楽復興の気運が隆盛し、20世紀に入ると、ラヴェルがフランソワ・クープランを筆頭とする18世紀フランス音楽に学んだ成果を反映した《クープランの墓》を作曲するなど、ロココ芸術への関心は見逃せない潮流となっていました。

1920年代に刊行された本を直接手に取り、めくる体験は、ガラスケース越しで眺めるよりも、
感動が大きく増しました

このようにみていくと、裕福な生まれ育ちで、洗練された趣味の良さをそなえた青年プーランクがコクトーやディアギレフの眼鏡にかない、20世紀版「雅なる宴」のバレエ《牝鹿》の作曲者に抜擢され、その任を全うしたことは、ごく自然な流れのように思えてきます。

そうだとすれば、マリー・ローランサンの場合は、どうだったのでしょうか。

実は、彼女こそ、誰にもまして宮廷文化や貴族、上流階級に強い憧れを抱き続けていた女性なのです。ただし、その背景はプーランクなどとは正反対でした。ローランサンは私生児でした。父親は政治家でしたが、母親は地方出身の刺繍職人で、当時のパリでは、決して社会的に高い階層の職業とはいえません。父親は、この母子に金銭的援助は続けており、ローランサンもそれなりの教育を受けることは出来ました。それでも生育環境への反動から、強烈な上昇志向を育んでいったのでしょう。そのうえで時代の文化潮流を受けると、宮廷文化や貴族に対する憧憬は、焼け付くような願望に転じていったに違いありません。

ローランサンが本格的に絵画を学びはじめた当初、熱心に取り組んだのが、マリー・アントワネットお気に入りの女性画家エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの作品の摸写であったというのは、まことに象徴的です。

さらには、長く恋人関係にあった詩人にして美術・文芸の評論家であったギヨーム・アポリネールと別れ、1914年にドイツ人貴族と結婚して「男爵夫人」となり、望んでいた上流階級の社交界への仲間入りを果たすと、ローランサンは贅沢好きな浪費癖を露わにして、夫を悩ませました。この性癖は1922年に離婚する要因のひとつともなります。

ローランサンの愛読書であった『仏訳 枕草子 松尾邦之助、S.オーベルラン共訳初版』1928年刊行 (日本大学芸術学部所蔵)

そのローランサンが愛読した書籍が、フランス語訳の『枕草子』であったというのは、興味深い逸話です。

常田槙子氏によれば、1909年から34年にかけてのフランスでは、『枕草紙』や清少納言を紹介する5種の文献が著されますが、そのうちローランサンが最後に手にしたのは、おそらくは、パリ在住の文筆家・松尾邦之助と作家・翻訳家のエミール・スタイニルベル=オーベルランが共訳し、1928年にストーク社が出版した、初のフランス語全訳版『枕草子』でしょう。

それ以前の学生時代から、ローランサンはジャポニスムの美術動向を受けて浮世絵や日本文化に関心を寄せるようになり、その延長でフランス語訳『枕草子』と出会ったのでしょうが、愛読した理由は、自身で書き残しているように、『枕草子』での記述内容や清少納言の人柄が、フランスの宮廷文化のありようと似ていると感じたためでした。つまりは、『枕草子』そのものを純粋に日本の古典文学として理解し味読したわけではなく、平安時代の王朝文化と18世紀以前のフランスの宮廷文化、清少納言とフランスの貴婦人を重ね合わせて読み取り、両者を共に遙かなる憧憬の対象として同一視していたわけです。

ローランサンの『枕草子』への傾倒ぶりはそれだけでは治まらず、後に『夜の手帖』(Le Carnet des nuits)と題して出版される詩文画集に収められた1920年代を中心とした身辺雑記や随想の書きぶりは、まさに清少納言の文体を彷彿させるものとなっています。ちなみに、1928年版のフランス語訳『枕草子』も本学部図書館に貴重書として所蔵されています。

またもや宮廷文化や貴族、上流階級に対する癒やしがたい憧れというわけですが、加えて、ローランサンはまことに恋多き女性でした。そうだとすれば、新作バレエ《牝鹿》の企画に誘われれば、興味を示さないわけはありません。

ローランサンをディアギレフに推薦したのはプーランクであったとされますが、それ以前から、ローランサンはコクトーを介してプーランクのことを知っていましたし、アポリネールの『動物詩集』(1911)から6篇の詩を選んでプーランクが1918年に作曲した歌曲集をローランサンは賞賛していたとの話も伝わっています。さらに、プーランクがディアギレフから依頼されたバレエ音楽の構想に悩んでいた時に思い浮かんだのが、馬や犬、猫、鹿などの動物とともに単独、もしくは複数の女性が描かれたローランサンの絵画作品であり、そこから「雅なる宴」のイメージと「牝鹿」という題名が自然に固まっていったのだといわれています。こう考えると、コクトーを媒介に、ローランサンとプーランクが各々の分野で才能を発揮して、ディアギレフが望むような斬新で美しいバレエ《牝鹿》を協同作業で産みだしたのは、必然であったとさえいえるでしょう。

事実、ローランサンの1920年代の絵画作品の多くは、登場する人間は女性だけではあるものの、やや愁いを含んだ夢心地な面差しの女性たちが思い思いのポーズで立ち、座り、抱き合い、動物と共に憩うさまを描いた構図のありようは、直ちに雅宴画を想起させるのです。

 

ところで「フランス六人組」のひとり、ジョルジュ・オーリックはコクトーの8篇の詩に曲を付けた歌曲集《八つの詩》を1920年に発表していますが、その6曲目の詩はタイトルが「マリー・ローランサン」、内容は「野獣派〔フォオブ〕と立体派〔キュビスト〕の間で小さな牝鹿よ、あなたは罠にかかった。芝生と貧血があなたのお友達の鼻を蒼ざめさせる。佛蘭西はしとやかなお嬢さん」というような、いささか思わせぶりなものとなっています。

そして、この詩の日本語訳の翻訳者・堀口大學こそが、近代日本文学の歴史に「雅なる宴」の系譜を芽生えさせた文学者でした。堀口は外交官の息子であり、早くからヴェルレーヌに傾倒していましたが、マドリードではスペイン亡命中のローランサンと交友するなかで、アポリネールの詩作にも触れます。その時に知ったアポリネールとローランサンの悲しい恋のいきさつをモチーフとして1919年(大正8)に発表したのが、処女詩集『月光とピエロ』でした。そこでのもの哀しい男女の恋愛と別離のさまは、ヴァトーの雅宴画のうち《メズタン》や《ピエロ》、《シテール島の巡礼》に漂う雅ななかにも憂愁に満ちた面持ちと通い合う性格のものであり、島内祐子氏が見事に論じているように、ヴァトーの「雅なる宴」のイメージは堀口以降、芥川龍之介、林達夫、三島由紀夫、堀田善衛、吉田健一へと次々に引き継がれ、文学作品のなかで変奏されていくことになるのです。

他方、堀口は自身の詩作のほか、昭和2年(1927)に初めての評論『ヴェルレエヌ』を著し、アポリネール(大正14、昭和3)、コクトー(昭和4、7、11、12)、昭和11年の『マリイ・ロオランサン詩画集』を翻訳するなど、戦後にいたるまで、長くフランス文学の評論や翻訳書を世に問い続けていきました。

こうして「雅なる宴」は、ローランサンをひとつの結節点として、フランスと日本双方の近代芸術史に意外なほどの拡がりをみせていったわけです。

マリー・ローランサンが描いたココ・シャネルの肖像画を、シャネルが拒否して受け取らなかった
エピソードなど、同い年でもあるふたりのライバル関係だった興味深いお話も印象的でした

さて、最後にぜひともお話しておきたいのが、ローランサンが描いた一点の肖像画についてです。ご承知の通り、1920年代は「狂騒の時代」(Roaring Twenties/Les Années Folles)と呼ばれるように、アメリカやヨーロッパ諸国では経済的な繁栄を背景に自由と活気に満ちた、一種激情的なまでの祝祭的雰囲気が醸成されていました。ことにパリでは、モンマルトルやモンパルナスを中心に知識人や文学者、芸術家たちが数多く集い、モダンスタイルの華やかな文化、芸術活動を繰りひろげます。そこでは、パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックが創始したキュビスムですら、もはや先鋭的な前衛美術ではなくなり、ロベール・ドローネーらが口当たりのよい表現に変容させた世俗的キュビスムを展開させていました。

一方、キュビスムの要素を工芸やデザインに応用した新様式が、アール・デコでした。俗な言い方をすれば、世俗的キュビスムとアール・デコは共にキュビスムを親とする姉妹のようなものだったのです。そして、このような芸術動向のなかで一世を風靡した二人の女性のうち、ひとりが世俗的キュビスムの画家ローランサン。いまひとりが、ファッション・デザイナーのココ・シャネルでした。

やや意外に聞こえるかもしれませんが、実は、シャネルが1920年代に創出したシャネル・スーツは、ファッションでのアール・デコなのです。ローランサンの描く女性像は、長く引き伸ばされたプロポーションと凹凸を抑えた形態把握を特色としています。一方、シャネル・スーツも着用した時に極力女性らしい体型を隠して、身体全体をさながら円筒形であるかのような姿に整えます。両者は共に、ピカソらが唱えた、全ての事物を幾何学的立体に還元し表現するというキュビスムの造型原理を受け継いでいるのです。

そのうえで興味深いのが、ローランサンとシャネルそれぞれの人生にみられる、驚くほどの共通点です。二人は共に1883年生まれの同い年。ローランサンの母親が社会的地位の低い刺繍職人であったのと同じく、シャネルの母親も洗濯婦という賤業労働者であり、シャネルが産まれた時には、母親はまだ衣類行商人の父親と正式な結婚すらしていませんでした。さらに12歳の時に母親が亡くなると、父親はシャネルら三姉妹を孤児院に預けてしまいます。つまりは、シャネルの生育環境はローランサンと同様に、恵まれたものではありませんでした。

しかし、その後、シャネルは貧困生活のなかで裁縫の腕を磨き、ファッションの世界で才覚をあらすことで、バレエ・リュスの舞台衣装を手がけ、事業も拡大させ、ピカソやコクトーらと交流し、さらには、イギリスの貴族たちと深い関係を結ぶことで、憧れていた上流階級に食い込んでいきます。まさにローランサンとシャネルは、似たもの同士だったのです。

上昇志向が強いこの二人がぶつかると、どうなるか。その結果が、シャネルの依頼でローランサンが1923年に制作した肖像画をめぐる一件です。

ローランサンが描いたシャネルは、疲れと不安に満ちた、自信なさげで気だるい姿かたちの女性像となっています。社会のなかで男性に負けること無く活動する女性を想定したファッションを標榜し、自身も強い女性であると信じて生きてきたシャネルの肖像とは思えません。当然ながら、シャネルはこの作品の引き取りを拒否し、描き直しを強く主張します。対して、ローランサンは再依頼を断固として拒絶します。そのため両者の仲は、完全に決裂してしまいます。

“Les Biches”掲載のマン・レイ撮影のポートレートが巧まずして捉えているように、ローランサンは、女性の弱さや優しさを全面に押し出して、男性に甘えかかることで生き抜いてきた女性でした。その彼女は、おそらくはシャネルに同類の匂いを嗅ぎつけ、男に負けない強い女でありたいと願うシャネルの隠しておきたい内面的な弱さを見抜き、それをえぐり出して描き出してしまったのでしょう。だからこそ、シャネルは「本当の自分」を見せつけられ、激怒したのだと考えられるのです。

 

時間となったようです。皆さん、どうか今後も、御自分の専門以外の芸術作品にも幅広く触れ、多くの本も読み、考え悩むことで、感性とともに、知識と知性も豊かに膨らませていって下さい。そのために、この図書館はあるのです。それでは、これで終わりましょう。

図書館で行われた「マリー・ローランサンとモード展」展示風景
◆写真撮影:下沢真梨子(写真学科学生)

美術学科
大熊敏之 教授
北海道立美術館の学芸員を振り出しに、宮内庁三の丸尚蔵館主任研究官、国立富山大学大学院芸術文化学研究科教授と本務先を転々とし、現在は日本大学芸術学部・大学院芸術学研究科で美術史を講じる。西洋美術史の研究者を志していたが、職場の異動に伴い専門分野変更を余儀なくされ、一応、日欧近世近代美術交流史と工芸・デザイン史を看としている。NHK、日本テレビ、フジテレビ等の番組や新聞、雑誌にも顔を出す。家族は、家内と猫三匹のみ。本当の生き甲斐は、何をおいても、音楽(CDとLP鑑賞、スコア蒐集、読譜、リコーダー演奏)。
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