お笑いの現在・過去・未来

「お笑い」は、昔も今も、テレビやラジオに必要不可欠な要素です。しかし、お笑いとして提供されたネタが、昔も今も同じように笑えるとは限りません。例えば、2017年9月28日放送『とんねるずのみなさんのおかげでした30周年記念SP』(フジテレビ)で復活した、石橋貴明扮する往年のコントキャラ「保毛尾田保毛男(ほもおだほもお)」。私は、かつてそのキャラに苦笑したり爆笑したりしていたはずなのですが、クスリとも笑えなくなっていました。むしろ、かつて何の躊躇もなく笑っていた自分自身にゾッとしていました。

どうして笑えなかったのでしょう。昔と今の自分で何が違うのでしょう。答えは単純です。保毛尾田保毛男を見て不快感を顕にしたり、あるいはため息をついて落ち込んだり、すかさずチャンネルを変えたりしたであろう何人かの顔が具体的に思い浮かぶか否かの違いでした。性の多様性に関する理解が足りず、性的マイノリティの苦悩や葛藤にも無頓着だったのです。

もしかしたら、今、好んで見ているバラエティー番組も、何年か後に見返したとき、まったく笑えなくなったりしているのかもしれません。

私は、大みそか恒例の特番『笑ってはいけない』シリーズ(日本テレビ)が大好きで、欠かさず録画しています。毎年リアルタイムで見てもいます。しかし、2021年は放送休止。コロナ禍でロケができないのが理由だとされましたが、おそらくそれだけではないでしょう。同年8月、「出演者に痛みを伴う行為をしかけ、それをみんなで笑うような、苦痛を笑いのネタにする番組」の是非がBPOの青少年委員会で審議入りしていました。それが少なからず影響したのではないかと。なにしろ、『笑ってはいけない』シリーズは、ムエタイ選手による臀部への「タイキック」、元プロレスラーによるビンタなど、罰ゲームとして与えられる数々の苦痛をまさに笑いのネタにしている番組の典型です。暴力やいじめを肯定していると受け取られかねないと言われれば、たしかにそのとおり。その懸念を払拭するための何かしらの工夫やしかけがなければ、将来、笑えない番組になっていく可能性大です。

また、2017年大みそかに放送された『絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時!』では、浜田雅功がエディー・マーフィーに扮し、肌を黒塗りする所謂「ブラックフェイス」で笑いを取ったことが、米国ニューヨークタイムズや英国BBCなどの海外メディアから人種差別的だと非難を浴びました。このときは、私自身、おもしろいかどうかより、これから大きな問題になるぞとむしろ心配が先に立ってしまいました。このシーンの再放送は、おそらくできないでしょう。

とは言え、たとえどんなケチがついたにしても、私は『笑ってはいけない』シリーズを応援し続けます。
ちなみに、これまでの放送で最も印象深いのは、2013年大みそかの『絶対に笑ってはいけない地球防衛軍24時!』。これもBPOから内容が問題視されました。芸人が肛門に粉を注入してパンツを脱ぎ、別の芸人の顔面におならと共に噴きつけたり、ふんどし姿の芸人の股間に向けてロケット花火を噴射するといったネタが「バラエティー番組のボーダーラインを超えている」とされたのです。たしかに下品で、卑猥で、しょうもないネタだとは思います。ただ、この放送時、私は腹を抱えて爆笑していました。そして人を笑わせるためにここまでやるかと感動すらしていたのです。

さて、テレビは、そして「お笑い」は、これからどこへ向かうのでしょう。クレームやお叱りを恐れて萎縮し、「あれがダメならきっとこれもダメ。たぶんそれもダメだろう」と自主規制を強めていくだけならば、少なくともテレビの「お笑い」は衰退の一途を辿ることでしょう。

大切なのは、自分なりに表現者としてアウトかセーフかを峻別する判断基準とその根拠をもつこと。そして、ぎりぎりセーフをねらい続け、必要に応じてその判断基準をアップデートしていくことだと思います。

例えば、このネタ、このシーンを笑っている自分自身を肯定できるかどうか。
また例えば、このネタ、このシーンを見て親兄弟や子どもが笑っているのを想像できるかどうか。
そうした判断基準の上に、淘汰されないお笑いがあるのではないでしょうか。
テレビとお笑いの未来に、幸あれ光あれ。

放送学科
金 龍郎
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