言語化するのが難しい心の内面は、どのように表現されるのだろうか。臨床心理学領域においては、無意識的な側面を外界に映し出す「投影」の働きを、創造的で芸術的な作用として取り上げます。大衆文化=ポップカルチャーに映し出されるものを、集合的無意識の観点からとらえてみよう。
心理学、特に臨床心理学領域では、心の内面を表現する際に言語的な手段だけでなく、描画法や箱庭療法などの技法を用いて、言語化しにくい事柄をとらえます。自身の心の内面の無意識的な側面を、外界に映し出すことを心理学の世界では「投影」といいます。
カウンセリングにおける治療場面では、自身の否定的な側面を他人に映し出して自分を防衛するメカニズムとして投影は重要視されますが、創造的で芸術的な心の働きとして作用することも少なくありません。
物理的に同じ世界を見ていても、投影の働きによって、映し出されるものは人によって異なります。どれだけ精緻な模写を行ったとしても、多かれ少なかれその人の内面が外界に投影され、結果としてまったく同じ作品はこの世に2つとありません。
古来から我々人間は、自身の内面を外界に投影しながら多くの物語を紡いできました。それらはある国では神話として、またある国では昔話やおとぎ話として伝承されてきました。名もなきアーティストたちが生み出したであろう作品群は、語り継がれる過程で必然的に多くの引用や参照を繰り返して、しだいに個人の物語から大衆の物語になります。心理学者のカール・グスタフ・ユングは、神話や昔話を個人の無意識を超えた集合的な人間の無意識の産物であるととらえました。
集合的無意識の産物は、時を超えて人間の心の内面を次の世代へ届けます。例えば「芸術と心理Ⅰ」の授業では、縄文時代の土器のフォルムや地母神に刻まれた渦の紋様のイメージを扱います(https://www.chuko.co.jp/shinsho/2017/05/180481.html)。春になると育つ草花が、やがて枯れて土へと戻る生命の循環。その中に人間も含まれていることへの驚きや悲しみ、それと同時に湧き上がる土への敬意や畏怖の念を、縄文土器のフォルムや地母神に刻まれた渦の紋様から読み取ることができます。今よりも死が圧倒的に身近だった時代に生きた人々は、生と死に対する想いを、どのように心に収めていたのでしょうか。普段、我々が無意識に行っているであろう、困難な現実を受け入れる過程に、イメージを通してアプローチします。
「芸術と心理Ⅰ」の授業では、描画法を体験して自身の内面の投影を味わったり、神話や昔話、縄文土器、マチュピチュなどの遺跡を集合的無意識の観点からとらえます。さらには集合的無意識よりは比較的浅いと考えられる文化的無意識をとらえるため、現代の大衆文化(ポップカルチャーと呼ばれます)へと視点を移します。
現代のポップカルチャーにおいても内面の表現が外界へと投影され、多くの作品が生み出されています。多様性の尊重がテーマとなっている現代では、異なる年齢や性別、国籍や人種への理解を促して、互いの連携を目指す潮流があります。この流れはS N Sなどのメディアを通して大きなうねりとなって広がり、個人の価値観に影響を与え、結果として我々の内面に変化を及ぼします。このような潮流は、もちろんアーティストにも影響を与えます。そのため社会的なムーブメントと、個人のアイデンティティーが重なりあうポイントに興味深い多くのポップカルチャー作品が生み落とされることになります。
「芸術と心理Ⅰ」の授業のなかで、ポップカルチャーの記念碑的なパフォーマンスの例として、アメリカにおける最大規模のフェスの1つであるコーチェラで、ビヨンセが2018年に行ったライブを取り上げます(https://www.youtube.com/watch?v=UbKSU07uf7Q)。日本では渡辺直美さんのものまねで有名なビヨンセですが、黒人の女性アーティストとしては初のヘッドライナー(要するに大トリ)を務めました。ビヨンセは100人を超えるダンサーを率いて、出身地であるニューオリンズを起源とし、歴史的黒人大学の伝統であるセカンド・ライン・ブラス・バンドやダンスなどのブラックカルチャーを参照したスペクタクルなショーを行います。彼女たちは綿密なリハーサルを繰り返し、サウンドのアレンジやダンスを含めて完璧なパフォーマンスを展開します。ビヨンセは双子の妊娠により2017年のコーチェラの出演を見送ったので、これが出産後の復帰のステージでした。ビヨンセにとっての職場復帰でもあったのです。SDGsでは社会における女性活躍を推進していますが、職場復帰は女性の活躍を実現するための大切なテーマでもあります。
このライブは、夫でプロデューサーのJay-Zや妹のソランジュが登場し、さらには自身がかつて所属していたグループのDestiny’s Childがステージ上で再結成されるという、ビヨンセ個人とアーティストとしてのキャリアが集積されたエンタメとなっており、それだけでも十分に楽しむことができます。そこにジェンダー、人種、民族などのアイデンティティー・ポリティックスが重層化して共存しています。2018年のコーチェラのステージは、ビヨンセという女性アーティストのアイデンティティーと、黒人に対する人種差別撤廃を訴えるブラック・ライブズ・マターという大きな潮流が合流する瞬間でした。美と女性指導者の象徴であるエジプトの王妃風の衣装に身を包んだビヨンセが、砂漠の中で100人を超えるダンサーとマーチングバンドを率いて行うパフォーマンスが収められたドキュメンタリー映像から、あなたはどのようなイメージを受け取るのでしょうか。授業ではイメージと象徴という観点からこのドキュメンタリー作品を取り上げます。
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