心の底で、言葉を手にする―日藝で学ぶということ

文芸学科資料室。数々の作家の全集を収める

私のなかの全人類

日藝で教鞭をとっていた文芸批評家・奥野健男が、作家に向けて、こんなアンケートを取ったことがあります。

「あなたは、誰を意識して書いていますか?」

作家たちは、「家族を意識して書く」「ファンを意識して書く」「編集者を意識して書く」「誰も意識しない」…など、さまざまに答えました。

安部公房という作家は、こんなことを言っています。「私のなかの全人類を意識して書く」。

「私」だけを意識していたら、他者に伝わらないコトバになってしまうでしょう。しかし「全人類」を意識していると、常套句しか言えなくなってしまいます。そこで安部公房は、「私」のどん底に、「全人類」に通じる普遍的なものを見いだそうとしたのです。

私たちが創作するとき、自分のために書いているのだけれど、もっと広いもの・もっと深いものに呼びかけているような、呼びかけられているような気がすることがあります。それをこの大作家は、「私のなかの全人類」とよんだのでしょう。

心とは何か

私たちは皆、「心」をもっています。アリストテレスという哲学者は、心が「事件」と出会い、そこから「言葉」が生まれてくる、といっています。

では、心とは何でしょうか。「心の果ては、君がどこまで行こうとも、如何なる道を辿ろうとも、それを見出すことはできないだろう。それほどに奥は深いのだ」―これはヘラクレイトスという人の言葉です。

私たちはよく、「心の底から」と言いますが、心の底にはさらに底があり、「心」とは何かという問いに、私たちはうまく答えることができません。

不安定で曖昧な「心」を抱えて、私たちは生きています。思春期の学生にとって、心が何かわからない、自分が誰かわからない、ということほど辛いことはないでしょう。

藤田一美「方法としての遊戯、冒険としての解釈」(『実存文学』所収)

心と創作

かたちのない、曖昧な、存在するかどうかすらわからない「心」というものを、それでも信じなければ、私たちは生きることができません。私たちは「心」がどんなものかわからないのに、「心」がなければ、「わからない」という気持ちすらもつことができないのです。

「心」はたしかにここにあると宣言すること、その痕跡を刻み込むこと―それこそが創作です。

リルケという詩人は、つぎのように書いています。

「自らの内へおはいりなさい。あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐって下さい。それがあなたの心の最も深いところに根を張っているかどうかをしらべてごらんなさい」(『若き詩人への手紙』)

これは、「良い詩を書くにはどうすればよいか」と聞いてきた若者への、答えとして書かれたものです。

「あなたの心の最も深いところ」から湧いてくる言葉を書きなさい、とリルケは言います。これを、逆に言い換えることもできるでしょう。「もしも良い詩が書けたなら、それはあなたの心の最も深いところがたしかに存在し、そこから何かが湧いてきた証拠である」と。

文芸学科資料室に配置されたリルケ全集

日藝生の創作

日藝生は、日々創作しています。「書かずにいられない」ことがあるからです。「心」があるからこそ、私たちは表現します。そして表現することをとおして、「心」がたしかにここにあることを、証明しているのです。

「心」がどんなものかわからない、存在するかもわからない…この不安から逃れるため、時に人は自暴自棄になります。ですが、この不安を別の道に生かすこともできます。日藝生は、友情や恋といったプラスの感情だけでなく、不安や絶望といったマイナスの感情をも、表現に昇華しています。

そのように、自分の「心」からのよろこびや悲しみを表現に生かしているからこそ、日藝生の作品は、他者の「心」にもふれうるのです。

合評の様子

心のふれあい

日藝には、さまざまなサークル・読書会・研究会があります。彼らは日々、書き合い、読み合い、語り合っています。

自分の心からの言葉を、他者の心からの批評にさらすことで、新しい「自分」が見えてきます。自分でも気づかなかった心の奥底が、先生や友人、また見知らぬクラスメートの言葉によって、明るみに出されるのです。そして、新しい痛みや新しいよろこびをみつけ、日藝生は新たな創作に入っていきます。

芸術は、自分の「心」の底から生れてくるものです。だからこそ、見知らぬ人の「心」を揺り動かすことができます。この感動の連鎖のさなかで、日藝生は絶えず学び、奮起し、未来を目指しているのです。

2021年度「日藝の卒博」の準備の様子

参考文献:山下洪文監修『実存文学』(未知谷、2022年)

文芸学科
山下 洪文
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