入学後に気が付いた沖縄との「ギャップ」。社会を映し出すプロデューサーの原点
映画監督への夢、そして「楽しませたい」という原体験
幼少期から、私の心には映画監督になりたいという夢がありました。沖縄で育った私は、幼い頃から明るく、そして楽しいことが好きな活発な子どもでした。クラスでは友達を笑わせるのが大好きで、たくさんの人と関わることに喜びを感じていました。
小学校の頃には、映画監督への夢はすでに明確な目標となり、中学1年生の時には先生のカメラを借り、友達と一緒に自作の映画を撮り始めました。編集機材がないため、録画ボタンを押しては止め、次のカットをセッティングしてまた録画ボタンを押すという、まさに“超原始的”な方法で制作しました。例えば、人物が画面から消えるといった効果も、カメラを止めてその人物がフレーム外に出てから撮影するというアナログな方法で実現していたのです。
完成したのは「学校の怪談」のような、お世辞にも本格的とは言えないホラー作品でしたが、クラス会で上映すると大きな笑いが起きました。その反応が本当に嬉しかったことを覚えています。自分が作った作品が、周囲の人に心から楽しんでもらえる。この原体験が、映画監督になりたいという私の夢を、より一層強く確固たるものにしました。

卒業制作撮影時、沖縄にて。助監督(監督コース同期)と段取り打合せ中。彼は現在アメリカロサンゼルスで映像ディレクターとして活動中。
日藝との出会い、沖縄から東京への大きな一歩
高校生になり、周囲が本格的に進路を決め始める中、私は映画監督になりたいという夢は抱きつつも、どこの大学に進むべきか決めかねていました。そんな時、たまたま手に取った就職系の本に「映画監督を目指すなら、やはり日藝の映画学科だ」という一文を見つけました。
日藝について調べてみると、苦手だった数学の試験がないことを知り、国語、英語、小論文、そして面接という試験科目に「ここだ!」と強く直感しました。専門学校も選択肢にはありましたが、小学校の頃からずっと映画を観てきて、好きな監督の多くが日藝の出身者だったことも大きな決め手となりました。
また、沖縄から東京に出たいという強い思いも、日藝への進学を後押ししました。先に姉が東京の専門学校に進学していたこともあり、私自身も県外へ出ることに抵抗はありませんでした。日本大学が沖縄で開催してくれた学校説明会で、教職員の方と直接話せたことも日藝への入学を決意する大きな要因となり、受験は日藝一本に絞り、「もし落ちたら浪人しよう」という強い覚悟で臨みました。

同上。カメラマン(撮影コース同期)と打合せ中。彼は現在日藝映画学科で教員として在籍中。
「異質」なスリラーと、社会へのメッセージを込めた卒業制作
無事、日藝に入学してからは、映画制作に没頭しました。大学では3年次の実習と4年次の卒業制作の2本が、自分たちで自由に制作できる主要な作品でした。
3年生時の実習では、ホラー映画「FEAR」を制作。10分間リアルタイムで物語が展開するスリラー作品でした。当時学生映画では「半径5メートル」の日常ドラマを描くことが多い中で、私は分かりやすいエンターテインメントとしての“ジャンルムービー”を目指していたため、異質な作品だったかもしれません。しかし、ありがたいことに「FEAR」は映画学科のコダック賞を受賞することができました。
一方で、卒業制作では「自分は何を作るべきか」という問いに深く向き合いました。それは、沖縄の米軍普天間基地の隣で育った私が、東京に出て初めて「自分の育った環境が、決して“普通”ではなかった」と気づいた経験が大きかったからです。沖縄で起きた事件が東京のテレビではほとんど報道されないことにも、大きなギャップを感じました。
学生映画では社会問題やメッセージを込めた作品が少ないと感じていたため、社会と向き合った作品を作りたいという強い思いを抱いていました。当初は日本の貧困問題をテーマに考えていましたが、最終的には自身のルーツである「沖縄のことをやらなければ」という切実な思いに至り、沖縄の複雑な現状を描く作品を制作しました。
沖縄の作品といえば、「癒しの島」というポジティブな側面か、「基地反対の島」というポリティカルな側面を描いたものが多い中、私はそのどちらでもない「グレーゾーン」で生きる人々の思い、つまりその時、私自身が抱えていた感情を表現することを目指しました。

同上、撮影中。中心に映る俳優は演技コース同期を起用。彼は現在地元神奈川県で警察官になっています。
「夢の転換」、日藝の繋がりが拓いた連続ドラマ
「フェンス」制作秘話
卒業制作で沖縄の複雑性を表現した思いは、卒業後も私の中に強く残り続けました。卒業制作に熱中しすぎて就職活動をしていなかった私は、教授の紹介でテレビドラマ制作会社に入社。そこで、映画監督ではなく“プロデューサー”としてのキャリアをスタートさせます。この「夢の転換」には大きな葛藤もありましたが、日本の映像業界において、自らの企画を実現できるのは監督よりもプロデューサーの方が可能性が高いと感じ、自分としてはそちらのほうがやりたいことに近いと判断し、この決断に至りました。
プロデューサーとして「沖縄のために作品を作りたい」という強い気持ちを抱いていましたが、商業作品としてこのテーマを実現するのは容易ではありませんでした。
そんな中、日藝での繋がりが運命的な出会いを生み出します。私がプロデュースしたドラマ「ダブル」は、日藝の同級生が編集担当をした漫画が原作で、脚本の吉田恵里香さんはじめ、監督やカメラマンも日藝の先輩や同期にお願いしました。その漫画の編集担当がNHKのプロデューサーに私を紹介してくれたことから、大きな企画が動き出すことになります。
そのプロデューサーはかつて沖縄に赴任していた経験があり、沖縄を舞台にしたクライムサスペンスを脚本家・野木亜紀子さんと企画していました。お二人が書いた企画書とプロットを読んだ時、それはまさに私が描きたかった「沖縄の複雑性」や「そこに生きる人々の思い」を深く追求するものでした。プロデューサーとしてだけでなく、うちなーんちゅ(沖縄出身者)として心から感動し、その覚悟と優しさに深く感謝しました。この出会いを「運命だ」と感じ、どんなことがあってもこの企画をWOWOWで放送させると覚悟を決め、連続ドラマ「フェンス」(第61回ギャラクシー賞テレビ部門大賞受賞)の制作が実現しました。日藝の繋がりがなければ、この作品は決して実現しなかったのです。
作品作りにおいて最も大切なことは、制作者が「これを作りたいんだ」という情熱を強く持ち、そのビジョンを明確に示せることだと、日藝での経験を通して痛感しました。日藝は、まだ何者でもない学生が、自分が「何をやりたいか」を見つけ、それを正直に追求できる場所です。これから日藝を目指す皆さんには、かけがえのない仲間との出会いを大切にし、成績や学校のためではなく、自分が本当に作りたいものを見つけてほしいと心から願っています。

撮影終了時のスタッフ・キャスト集合写真。みんなそれぞれいろんな道を歩んでいますが、一緒に作品を作ったメンバーもいたり、に見に行ったりと今でも交流があります。
(※職業・勤務先は、取材当時のものです)

株式会社WOWOW コンテンツプロデュース局 ドラマ制作部(取材当時)