脚本は作品の設計図を次の人に繋げる大切な仕事。
その大切さを、日藝の繋がりでお会いした先輩方に教わりました。
私だったら、もっと上手くできるはず。
それが脚本という仕事を目指すきっかけでした。
脚本そのものに興味を持つきっかけは、振り返ってみるとこんな感じのアニメをやりますよという予告まとめ動画のようなものをYouTubeやニコニコ動画などで見ていた時ですね。その時に見た予告が、内容があまりうまく伝わってこないなあとか、これどういう話なんだろうとか、いろいろ感じることがありました。とても生意気ながら、私だったらもっとうまくできる!という気持ちになったことが最初の大きなきっかけだったと思います。仕事にできるかもしれないと、なんとなく感じたのが中学1年生か 2 年生くらいの頃でした。
文字を書けるようになったのは、たぶん5歳ぐらいだったと思うのですが、その時からずっと漫画みたいなものを書いたり、絵本を描いたりしていました。文章を書いたり、話を作ったりしたことも好きでいつも書いていましたね。
会話が好きだったので、そこからお話も作れて会話も書けるということで、「脚本」という仕事があることに気がついたのも中学 2 年生ぐらいの時だったと思います。そこからずっと、なりたいなあと思っていたような気がしますね。
脚本家という仕事に就くために、
考えられることはなんでもやった学生時代。
文芸学科は2年生から自分が所属するゼミを選べるのですが、小説を書いてゼミの先生に見てもらったり、ゼミ誌という年に一度ゼミから発行する小説集に載せる作品を書いたり、ゼミの学生同士で批評しあったりしていました。
脚本家という仕事に就くために学外の脚本家の先輩に会いに行ったり、学内で脚本の授業を受け持っている先生に学科の壁を越えて会いに行き、話をお聞きしたりしていました。その先生には今でも同じ現場に入れていただくなど、とてもお世話になっています。大学や学部の垣根を越えて、いろいろなプロの先生方にお会いできたことや、「日本大学の芸術学部に今所属してるんです」と伝えると、卒業生の先輩方が会ってくださり、出会える方々の幅が広いところが日藝の大きな魅力でしたね。
一番記憶に残っている授業の一つに、青木敬士先生の文芸創作論があります。今まで見たことがなかったアニメ作品を見せていただく等、思考の引き出しが広がるとても面白い授業でした。今でも、文芸創作論で見た作品を参考作品として見返したりしています。
サークルはオーディオ無線研究会に入っていました。ラジオ番組を作るサークルで、合宿先などで班に分かれ、各班ごとに番組を制作・発表するサークルで部員の数も多く、すごく楽しかったです。FM埼玉の番組枠の一部を研究会が使える枠として提供していただき、毎週週替わりで班に分かれてその番組を制作していました。
脚本の仕事は、作品の背骨を一本通す仕事。
作品の設計図を次の人に渡す仕事だと解釈しています。
学生時代からアニメの脚本を書く仕事に就きたいと考えていました。
だいぶお行儀が悪いですが、小さい頃からすれ違う人の言葉や、電車の中で知らない人が交わす会話を耳にするのが好きでしたね。
発する言葉からこの人はどういう人なのか、どういう境遇なのか、話している人同士がどういう関係なのかを推測する中で、会話でそれを表現できるというのはすごく面白いなと考えるようになり、会話でドラマを作る脚本に惹かれるようになりました。アニメ業界を志したのは、アニメ業界の人たちが作る空気が居心地よく、好きだったからです。脚本は、アニメ業界であれば絵コンテを書くコンテマンに、作品の設計図を渡す仕事です。今、実際に仕事をしていて、私が好きな「登場人物同士の会話」は脚本の大きな役割の一つで、他にもたくさん重要な役割があったんだなと考えるようになりました。
脚本の仕事を一言で言うなら、作品の背骨を一本通す仕事だと思っています。その作品のメインテーマは何なのか、監督を始めとするスタッフ全員で話し合いで決定して、そこに会話やシチュエーション、テーマを最も際立たせる構成の形は何なのかを検討する等、骨格に肉付けを加えていく仕事かなと思います。
大学時代にお世話になった先輩方とずっと仲良くさせて頂いている。それも日藝の良さだなと感じています。
授業で得た学びもありますし、日藝の学生だと言って業界の先輩たちに会いに行くことができたのも大きいと思います。大学生という立場だと、色んな方々に話を聞きに行きやすく、日藝の卒業生の先輩たちにもたくさんお世話になりました。卒業後も、大学時代にお世話になった先輩方とずっと仲良くさせていただいているのは日藝のおかげだなと感じています。
映像作品を中心に脚本家として活動中