日藝で培われた音楽創作の「現場力」と「幅」。
幼少期の原体験が拓いた、現在への道筋。
私が音楽の世界に足を踏み入れたきっかけは、CM音楽を制作していた父親の影響が大きいように思います。幼い頃から家で年間数百曲もの音楽が作られる様子を見たり、レコーディングスタジオに連れて行ってもらったことで、音楽の世界に強い興味を抱くようになっていました。
自宅にはシンセサイザーを含む様々な楽器があり、それらに触れる中で「芸術音楽にして商業音楽」という自身の音楽制作のイメージを漠然と持っていました。当時、自分自身が将来プロになるという具体的なイメージはなかったものの、レコーディング現場で働く演奏者やエンジニアといった人々と出会い、彼らの仕事風景を見て、プレッシャーよりも楽しさを感じていました。
また、幼稚園の年長から小学校高学年の頃には、CMとして放送される子どもの歌を歌う機会もあり、自身が歌った歌がテレビで流れるといった体験も音楽への興味を深める一因となりました。中学校から本格的に音楽の道を目指し始め、将来を考えてピアノを習い始めるなど、より音楽と密接に向き合うようになりました。
この頃から、エンターテインメントとしてギャラをもらって音楽を作る商業音楽という仕事、概念を意識し、芸術を追求する現代音楽家とは異なる自身の方向性が明確になっていきました。
自宅スタジオにてピアノ演奏中
日藝で巡り合った、音楽の多様な世界観と新たな刺激。
ピアノを始めた時期が遅かったこともあり、芸術性を極める音楽大学よりも多様な分野の先生方がいる環境を重視しました。また、父の知人で日藝出身の編曲家がいたことも後押しとなり、付属高校から日藝への進学が現実的な選択肢となりました。
入学前から「幅広い影響が得られそう」「学びの幅が広そう」という期待を抱いており、入学後もその期待を裏切られることはありませんでした。
特に印象的だったことは、予想以上に幅広い音楽に触れる機会があったことです。先生や先輩、同級生には今まで触れたことのなかった現代音楽を真剣に追求する作曲家や、非常に優れたピアニストなど多様な才能を持つ人々がいました。
師事していた作曲の先生が現代音楽を専門としていたこともあり、授業や作品演奏会を通じて、最先端の現代音楽に触れ、それまでポップスを好んでいた自身の音楽の幅が大きく広がりました。
実践的な個人レッスンと他分野連携がもたらした、
創作力の深化。
授業の中でも、作曲の個人レッスンは特に貴重な経験となりました。週に一度、先生と1対1で1時間ほど行われるレッスンで、自作の曲を譜面に書いて持参し、先生から理論を交えた詳細なフィードバックを受け、ブラッシュアップをしていくという実践的な形式でした。レッスンの課題は、使用楽器や特定の音楽理論(例えば、ピエール・ブーレーズやリゲティといった現代音楽家の技法)に基づいており、当時はまだ出版されていない最先端の情報を直接学ぶことができました。
個人レッスンを通じて制作された楽曲は、学内の演奏会で定期的に発表され、その都度フィードバックを受けながら磨き上げられ、最終的に卒業作品へと繋がっていきました。卒業作品は学内で代表に選ばれ、読売新聞社主催の読売新人演奏会で演奏させていただくことができました。また他学科と連携も行い、映画学科の学生の作品の音楽を制作する機会もあり、学内で商業音楽に近い業務を経験できる貴重な場となりました。

都内スタジオにてアニメ音楽収録風景
都内スタジオにてアニメ音楽収録風景
「何でもやる」姿勢が切り拓いた、
多様なキャリアと創作の醍醐味。
卒業後、「何でもやります」というスタンスで仕事に臨み、結果的に作風の幅が広がったと感じています。
キャリアの出発点は、学生時代に数十の会社へデモテープを送り続けたことでした。これは父親の仕事やアーティストの成功談に影響を受けたものです。その努力が実り、22~23歳頃にTBS関連会社の株式会社日音に契約社員として入社をし、レコーディング現場での実務や、作曲家・千住明氏のもとで経験を積むことができました。
プロデューサー、監督、演奏者など多くの関係者の多様な意見を調整し、困難を乗り越えて音楽を形にすることの難しさ、そして形になった音楽が最終的に放送・公開された時の「安心感」や「達成感」が現在の仕事のやりがいになっています。自身が作りたい曲を自由に作るだけでなく、みんなと話し合いながら作り上げていく過程にプロとしての醍醐味を感じています。
日藝には現役のプロとして仕事をしている先生方が多数いらっしゃいます。先生方の作品に触れたり、実際にレコーディング現場に連れて行ってもらえるといった実践的な学びは、音楽業界で働きたいと考える人にとって、かけがえのない経験になると思います。

都内スタジオにて映画音楽収録風景
(※職業・勤務先は、取材当時のものです)

作曲家